【92】  2005 秋  松阪城(松阪市)            2005.11.30


 松阪城は、1588(天正16)年、戦国の名将、知将と謳われた蒲生氏郷が、豊臣秀吉に封じられ、伊勢支配の拠点として築いた城である。小牧・長久手の戦のあと築城、伊勢国司の北畠具教が築き織田信孝が五層の天守を備えた松ヶ島城と、秀吉の居城である大阪城の名を取って松阪鈴の屋 正門城(12万石)と名付けた。
 
城下町の造りは信長の安土を参考に、「楽市楽座」を掲げで自由貿易を旨とし、三井家の祖である三井越後守らと商業都市としての城下町造りを行った。




← 松阪城内にある、
 本居宣長 旧宅正門






         本居宣長 旧宅邸内、玄関前 →




 蒲生氏郷(幼名鶴千代)は、近江の国日野城主であった蒲生賢秀の長子。信長は上洛に際して、近江の六角氏らを打ち破っているが、このとき敵方にいた蒲生賢秀は信長に降伏。本領安堵と引き替えに長男鶴千代を人質として差し出した。信長は岐阜城で鶴千代を引見したとき、その目つき・物腰・受け答えに感じ入り近習に取り立てる。さらに信長は娘の冬姫とめあわせ、信長配下の若大将とした。この時、氏郷15才、冬姫12才。
 1582(天正11)年6月2日、明智光秀の謀反により信長は本能寺にて自害。安土城の留守を預かる蒲生賢秀は氏郷と共に織田一族を日野城に移して籠城し、光秀に対峙、秀吉側に味方した。
 蒲生父子は天下人となった羽柴秀吉に仕え、1590年小田原征伐のあと、氏郷は会津若松城に入城。会津宰相として奥州各地を平定して92万石を録し、1595(文禄4)年、伏見で没した。詩歌に通じ、茶道では利休七哲の一人(千利休の高弟)。キリスト教に帰依鈴の屋して、洗礼名はレオンと称した。


          本居宣長 旧宅 俯瞰 →


 本居宣長は、1730(享保15)年、松阪本町の木綿商小津家の長男として生誕、幼名は富之助。宣長11才のとき、父定利が江戸で病没し、小津家は没落。一家は魚町の隠居所に移り住んだ(1909年に松阪城跡内に移された)。
 23才のとき、医学の修業に京都へ。学業の傍ら、儒学・古典・歌文なども熱心に習熟。医業で生計を立てながら「源氏物語」や日本の古典に傾注し、「源氏物語、玉の小櫛」「玉勝間」「秘本玉くしげ」「菅笠日記」などの著作を松阪城内著す。
 34才の時、江戸の国学者・賀茂真淵との「松阪の一夜」と呼ばれる運命の出会いを果たす。その後は、生涯を通じて「古事記」の研究に没頭し、35年の歳月をかけて「古事記伝」全44巻を刊行。古語の読法研究、神々の系図、神道の解釈、天体の動きなど、膨大な研究を 「古事記伝 」としてまとめた。このとき宣長、69才の偉業であった。
 鈴と山桜を愛し、53歳の時に増築した自らの書斎を「鈴屋(すずのや)」と呼んで、 これを屋号にも使用した。
松阪城の石垣
 本居宣長が12歳から亡くなるまで暮らした旧宅で二階に物置を改造した書斎がある。宣長はこの部屋で執筆活動に励んだ。
 鈴の愛好家だった彼が36個の小鈴を飾った柱掛鈴を壁に掛け、執筆活動で疲れたときには、その音色を楽しんでいたとか。
 鈴屋にかけてある掛け軸「縣居大人之靈位(あがたいうしのれいい)」は、本居宣長の直筆(レプリカ)である。「縣居」は本居宣長が尊敬していた賀茂真淵の号であり、賀茂真淵の命日にこの掛け軸をかけていたという。


  物見遊山トッブへ